他人の価値観や概念。
ルール、常識。
生き方、思想、哲学。
つくづく「人それぞれ」なのだと思う。
といいつつ、「人それぞれ」ってちょっと抽象的でピンと来なかったり
頭ではわかっても気持ちが受け入れられないなんて人は多いだろう。
私なんて頭でわかっていても
「なんであんなことするの!?
なんであーなの!?
信じられない!!」って1日1回は思うくらい良くあるもの。
今朝、タマラさんのブログを読んで「人それぞれ」について考えながら台所に立った時、シンクに溜まってるお茶碗の山を見て思った。
昨夜は疲れていて洗えなかった。
夜どうしてもやらなきゃいけない家事ってあるから、それらは疲れていようが這ってでもやるけど
私の世界ではお茶碗洗いはやるべき優先順位の下位だ。
翌朝の使用するのに支障がないものならば洗わずに放置できる。
「昨日のお茶碗が洗わずに山になってるのを見たら信じられないって言う人っているよなぁ。」
我が母は朝のシンクに昨夜の洗い物があるのを許さない人だった。
私が勤めていた頃、遅くに帰宅し夕食のお茶碗を洗わないで置いておくと叱られた。
例えばそこで、「お茶碗は洗って寝ないとダメなんだ」と母親のルールを素直に受け入れて自分のルールとして守り抜く人もいるだろう。
当時から私は「お茶碗なんて洗わなくても腐らないし」と思っていた。
ただ、現実は朝台所に立つのは母であるから母のルールに嫌々ながら従った。
百歩譲って従ったつもりだったのに、擦り込みとは恐るべし、結婚してしばらくは否定してたはずの「母のルール」が無意識のうちに当たり前になっていて、どんなに疲れていても必ずお茶碗を洗ってから寝た。
しかし子供が生まれて忙しくなったり
体力を優先するようになってから
考えを変え、そのルールを廃止した。
自分が主導権の台所は私の世界。
《お茶碗は洗わなくても腐らない。》
それを思い出し私の世界のルールが誕生した。
今朝、体が重くて山のようなお茶碗を見つめるも手が付けられない。
基本お茶碗洗いは好き。
それでも今はやりたくない方が強い。
今日は昼まで時間があるから
ひと休みして後で洗おうか…
しかしさすがに量が多いなぁ。
あれ?いっぺんに全部やらなきゃダメ?
いや、私の世界にそんなルールは無い!
お茶を飲もうと思ってたから
お湯が沸くまでの間、洗える分だけ済ませて残りはまた後にしよう!
《人がやらなきゃと気負ってる時、ほんの少し手を付けるだけでも、かなりの気が楽になるんだよ》の、法則。(私の世界の法則笑)
お湯が沸くまで半分洗えた。
ここでまた思う。
「『洗うなら全部最後まで洗うもんでないの?』
と言うルールの人もいるだろうなぁ。」
私も若い頃はそうだった気がした。
しかし、私は基本お茶碗洗いは好きなので
体力と気力と時間にゆとりがある時に
いやいやではなく
楽しみながら洗いたいのだ。
私にとってポジティブな選択だと確信があるから、それを「だらしない」とか思う人がいても平気なのだ。
「お茶碗洗わなくても死なないしね〜」
と笑顔で答えられる。
お茶碗洗いのルールも
考え方や生き方のルールも
政治や経済への見解も
基本は変わらないんじゃないかと思う。
目玉焼きにしょうゆ か ソース か
塩胡椒かマヨネーズか
で揉める新婚さんに
「それぞれ好きなのかけて食べりゃ〜いいじゃん」ってことと
他の人の世界を受け入れるってことは
大して変わらない。
仕事でも家庭でも親子でもパートナー関係の不調和における不満の多くは「目玉焼きに何をかけるか論争」に聴こえることが多くて
それで大切なものを見失ってる人が多いなって感じます。
みんなが「人それぞれ」が受け入れられたら、世の中がもっと穏やかになるんだろうな。